文月。
「月日は百代の過客にして 行かふ年も又旅人也」。
有名な「おくの細道」の書き出しです。
俳人松尾芭蕉は元禄2年(1689)3月27日(旧暦)に江戸深川の庵をあとにし、陸奥、出羽、北陸路をたどる150日余の旅に出ました。
山形県に足を踏み入れたのは5月15日で、今年の新暦では6月30日にあたります。
仙台領(宮城県)と新庄領(山形県)の国境を守る役人(封人)の家に泊めてもらいます。
しかし「蚤虱馬の尿する枕もと」という句を残しているくらいですから散々な夜だったのではないでしょうか。
芭蕉はその後、尾花沢を経て、山寺、大石田、最上川、酒田、出羽三山、鶴岡などを訪ね、6月27日(新暦8月11日)に離れるまで40日余りを山形県内で過ごします。
おくの細道の全行程の4分1強にあたります。
芭蕉がなぜこれだけ長期間滞在したのかはひとつの研究テーマにもなっておりますが、それはおくとして7月は山形県にとってまさに“芭蕉月間”といえましょう。
「まゆはきを俤にして紅粉の花」
「閑さや岩にしみ入蝉の声」
「五月雨をあつめて早し最上川」
「有難や雪をかほらす南谷」
「雲の峰幾つ崩れて月の山」
「暑き日を海にいれたり最上川」
県内で作った有名な句をならべてみましたが、いずれも7月の山形県の情景を見事に表しています。
雪、緑、蝉の鳴き声などさまざまな季節を同時に味わえるのが山形の大きな特徴です。
この中には一時、ほとんど姿を消してしまった光景もあります。
それが紅花。
エジプト周辺が原産地といわれる紅花はシルクロードを通ってわが国に伝わり、土壌と気候風土が適した出羽の国の最上川流域に広く根を下ろしました。
江戸時代は口紅や染料として珍重され、最上紅花は徳島の藍とならび全国の特産品の代表格でした。
紅花や米を運ぶ北前船で京都や大阪と結ばれていた最上川流域には豪華な雛人形をはじめ多彩な紅花文化が数多く残っております。
隆盛を誇った紅花栽培も、明治時代に中国産の輸入品や化学製品におされて壊滅状態に陥りました。
しかし昭和40~50年代にかけ本物志向の強まりや機能性食品としての有用性が注目を浴び、再び栽培されるようになりました。
面積も次第に増えてきています。
天童市や山形市の郊外でも栽培され、7月上旬の今頃がちょうど色づいた花の摘み取り時期です。
朝もやの中でかすかに揺れながら広がりゆく黄色のうねりを見ておりますと、悠久の時の流れに身を置いているような心地がしてきます。