「エッセイ」カテゴリーアーカイブ

アメリカ奮闘記『 ニューヨークからこんにちは 1』

『 ウアーー ウエストサイドストーリーと同じ風景だあ』 時間の飛行も終わりを告げようとしているその時、私が一番初めに感じた事は何とこんな事だったのだ。マンハッタン上空から映し出されたウ工ストサイドストーリーの始まりのシーン、その印象的な音楽とともに3年前に見たこの映画は私をとりこにした。その風景が目の前に広がる。

やってきたぞ ニューヨーク、こんにちはニューヨーク。それにしてもなんて素敵なインデイアンサマー。予約していたパークサイドゲストハウスに到着。ここはアパートメントで自炊システム、8日間で3500円、安いぞ。オーナーのトミーさんが大きな手と、飛び切りの笑顔で迎えてくれる。安堵感と疲れでまずは一休み。私が今回ニューヨークに来れたのは、伊藤久美さんとの出会いにほかならなかった。久美さんは、今年の四月にギャラリーサライで『 わらべ絵展』 を開催。そのときに劇的な出会いをしたのだった。
意気投合という言葉はこのことか。その後さまざまな交流の中から『 10月にニューヨークで個展をやるんだ、あなたも絶対世界に出るべき、来なさい』 鶴の一声。GO !『 紹介したい人や見せたい画廊がたくさんあるから・・』 久美さんの個展は10月15日から2週間の予定だった。次の日からは会場通い。(チ工ルシー)ウ工スト・ストリートにあるこのセーラムギャラリーはかなり広いスペースを持ち、三つに分けても使用できる造りになっていた。このときは2人同時の個展で、一人はニューヨーク在住のアーティストで、もう一人は九州の女性であった。オーナーのニコルス夫妻を含め四人で会場のディスプレー開始。私も何度も経験があるけれど、自分の個展会場作りは本当に悩むもの。
どこに何をどのように置いたらお客さんに見やすく興味をひくか、そして作品が見栄えがするか、とても繊細な感覚、センスが要求される仕事だ。皆であーだ こーだ言いながら作業は進められていった。どんな人たちが見にきてくださるのか。作品もどことなく武者震いしているように見えた。『 さあ章子さん、自分の紹介に行ってきなさい。』 久美さんに背中を押され、ニコルス夫妻の前へ。『 ナイストウーミートウユウ、マイネームイズアキコスズキ、アイムジャパ二ーズレザーアーティスト』 初めて作ったプ口フィール、作品力タ□ グをおすおす手渡す。『 Oh ビューティフル、グレイトー』 私、心臓バクバクーがんばれ笑顔だあー。久美さんも加わり四人で楽しく談笑。『 あなたも個展やりなさいよ。オプジェ的作品が良いと思うわよ』 と二コルス夫妻。『 準備期間が必要だからねえ、二年後ぐらいにまずどう?』 楽しい時間が過ぎてゆく。今回のオープニングレセプションが一週聞後にあるということだった。オープ二ングというくらいだから、初日にあると思いきや中日に行われるという。楽しみだなあ。

今回のニューヨーク行きの目的のひとつに、自分の作品の作風を実際に見ていただくというのがあった。私は久美さんに案内され本当に数多くの美術画廊を見て回ることができた。NY では十階建て程のビル全体が画廊という形式がとても多く、それぞれに違った個性を主張していた。新進作家の発掘のためか画廊のオーナー達もお客様として来場し、互いに情報のやり取りが、民江さんの穴場情報この味おすすめ「だだちゃ豆のグラタン」活発に行われていた。またパソコンで世界中の個展状況がダウンロードされていて、それを見つめる目は真剣で厳しかった。それともうひとつ、画廊で働く女性の対応のすばらしさには驚くべきものがあった。習慣の違いもあるがまずはスキンシップ、そして輝く笑顔。質問には丁寧な応答。きびきびとした動きの中にビーナス的な優雅さが感じられた。私も少しドキ・ドキしながらも唯一の武器であるプロフイール、パンフレットを頼りに挨拶、名刺交換を重ねていった。アメリカは文字通りアメリカン・レーザー・クラフトの発祥の地。それとは一味違う私の作風はおおむね好印象を持って見ていただけた感じがするが、それは私のうぬぼれと大いなる勘違いなのか。本当のところはどうだろうか。ウーン。NY でも名の通ったすばらしい画廊をこの目で見て、肌で感じ、いつか必ずそれもあまり遠くない未来、自分の個展を開くんだというファイトが胸の中にフッと沸いてくるのを感じていた。


酒田販売士協会会報 創刊号 2001年1月15日発行より

アメリカ奮闘記『燃えて楽しんで・・・私の2002』

私の2002年は京都・東山山荘での個展で幕を開けた。この個展は縁あって京都に足繋ぐ通ううち出会った場所であった。初めて見学に行った折りに「どんなことがあってもここでやる。やりたい。」そんな想いが私の中にムラムラと湧き上がって来た事を覚えている。園遊会も催されるという広く歴史ある日本庭園。母屋は、和建築の粋を凝縮させた見事なものであった。


内部には骨董家具がセンスよく配置され、オーナーのコレクションであるといわれる古今東西のアンティーク・オルゴールが山荘の歴史を見守るように静かに鎮座していた。そして何よりここの京懐石料理は絶品であった。

そんな東山山荘に一目惚れした私はその後、幾度となく個展の開催の許可を得るための京参りを繰り返した。「たたけよ!さらば開かれん」の心境であったように思う。夢の実現にはエネルギーがいる。時間がいる。あきらめない。そして京都でめぐり会った二人のアーティストにも声をかけ、結果3人の合同展として実を結んだのであった。

今までの作品展の概念を捨て、屋外での墨彩画(畳十枚分の大きなパネル…)の実演、八百屋お七をテーマにした舞踏集団の演技、お客様と三人の楽しいトークショーなどを取り入れ、エンターテイメントとしての新しい作品展を企画。三百余名のお客様には私の目にはとても楽しんでいただけたように映った。

さあ、三週間後はニューヨーク展。京都展の興奮を引きずりながらの創作活動開始。思いつきから約2年がかりの企画を終え、半分燃え尽き症候群の気持ちを立て直すのはなかなか大変、やるっきゃないか!作品点数が絶対的に足りない(思った以上に京都展で灯り作品が好まれたため―ありがたい事です―)、どうしよう。時間もない。あーどうしよう。ウーン、ウーン。そうだ、現場で組み立てよう、何とか手はある。キャスト・アイアン・ギャラリーに状況を説明。何とギャラリーのオーナーである家具作家O氏の工房を貸してくださるという返事、道具も使用してよしという。何とラッキー。ニューヨークのど真ん中で制作できる、ドキドキ…。吹っ飛んだり、燃えつき症候群。すべてのパーツを切り出し、漆仕上げを施し、部材を準備、さあ行くぞ。神戸から空輸しておいた作品が私を迎えてくれる。ディスプレイはどうする…?何は…これは…?やる仕事はいっぱい。説明する時の英語は…あー神様!オープニング当日、けっこう広いこのギャラリー。満員御礼の垂れ幕を下げなきゃと思うほどの人・人・人…。私は何か自分のことではないような不思議な気持ちでいた。2001年の初回のときに出会ったなつかしい顔もある。バラの花束を受けながらたくさんのキス、一生分。また帰って来れた。うれしい、本当にうれしい。

身ぶり・手ぶり・言葉を越える私のジェスチャー。一番多い質問は透ける革の素材と漆の効用であった。そして何を表現したかったか、イメージはどんな風に思いつくのか、この異素材の組み合わせの発想は…など多岐に渡ったが、とてもナイス・トゥー・ミート・ユーの世界の私には上手く説明できる訳もなく、ウルトラマンのように現れてくださったOさんに救われた。

今回は三週間の日程であった。なぜかアート関係のお客様が多く、大学でグラフィック・デザインを教えている教授、美術評論家、ニューヨークのビルを撮り続けている女性カメラマン、帽子デザイナー、照明学の先生等々、貴重な出会いが沢山あった。またO氏の地下工房はとても広いスペースで道具類も充実。作業はスムーズに運んだ。「現場で組み立てよう」の発想は大当たりであった。それにしてもここで創作している自分が夢のようであり「これ現実なのかな」と思いながらも気力が体の中から湧き出してくる感じであった。

夜は夜でまた楽し。ひたすら本場のジャズ・ライブを聞きに出かけ、ミュージカルも観に行った。知人宅ではハドソン川をはさんだニュージャージーからマンハッタンを眺望、手作りのランチは晴れ晴れとした青空のもと、最高のいこいの一時だった。

夢は夢にあらず、自分の夢を見つけ目標とし、大切に育てていこう。あこがれと感動をエネルギーに、志を持ち続けよう。必ず道はある、つくる。そんな私の思いを乗せてハドソン川は悠々と「自由の女神」に向かって流れていた。


人と人との出会いがすべて・・・