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photographed.


時代の変化に素早く対応

 生き残りをかけて業態変更に取り組み始めて16年目になる。今までやってきたことをいくら努力しても売上高が下降するという現実にぶつかり、「どうしたらいいのだろうか」という答えを見い出すために、研修会や店舗見学をさせていただくことが始まった。固定観念を捨て去り、すべてのアドバイスを「素直に聞く」を基本にした。

 それと、私どもの小さな店では経営者といっても夫婦二人が共かせぎでやっているので、同じ事を二人で同時に聞いて、その後で話し合いをし、お互いの偏りを修正するようにした。そしてすぐ出来ることから実践していく、論理的に正しいかどうかを売る現場でためしていった。お客様が喜んでくれれば正しいのであり、店側が少し困難であってもやり続ける。従業員と話し合いをし、店全体で周知徹底し、実践し続けていく努力をした。

 経営する者も言ったことと行動とを一致させる。従業員もお客様に対して言うことを本音だけとし、真からお客様の立場になって販売する。ただし、一時的に喜ばれてもその行為を継続し続けることができないことは、現在の店の条件では早過ぎるとして次の実践の課題とする。たとえば、一人暮しの老人の方まで毎日三度三度弁当を届けるとか、工事現場の残業のとき深夜弁当を届けるなどは、現在の私たちの店の体力では不足ですので、新しいシステムを作ったときの課題として現在はお断りしている。


有限会社ミートデリカ・クドー代表取締役
昭和13年4月19日生まれ。鶴岡市本町一丁目7−13。県立鶴岡南校卒業。
後に浦和市「高橋精肉店」にて見習いし、母が昭和23年間業した工藤肉屋に入る。
昭和40年12月(有)工藤牛肉店に改め、代表取締役となり現在に至る。店名も時代にあわせ、工藤肉屋→工藤精肉店→工藤牛肉店一肉のクドー、ミートデリカ・クドーと変えてきた。



工藤 秀耶
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ミートデリカ・クドー
平成5年(財)食品流通構造改書促進機構の優良経営食料品小売店全国コンクールで農林水産大臣賞を受賞した。
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 「顧客の創造」ということも結果的には実現してきたようです。業態変更を考え始めたときに、それまで来店してくれていた世帯の料理作りをしている主婦の人たちにも引き続き来てもらえるような品揃えをする。単身赴任の人、独身男性の人たちからも来店してもらうことが初期の目標だったが、結果的に10代から80代までの男女のお客様が来店していただき客層が拡がった。

 食肉店を経営してきて食材を売る仕事が最終点であったときには、枝肉から骨を抜き、切ることが職人の技術であり、特技であったが、スーパーマーケットの出現で業界全体が分業化し、工場化し、それらの技術改革で大量販売が可能な方向へとどんどん変化していった。肉を切るという技術も肉切機(スライサー)の性能が良くなり、ナイフを使う技術から、機械を使いこなす技術へと変っていき、売る技術もシステム的に優るスーパーマーケットに遅れてしまい、業界全体が差をつけられてしまった。それらのシステムの変化から生れたのが外食産業のファミリーレストランだった。

 このような中で小さいながらも私たちの店は、肉を仕入れ処理し、肉の善し悪しもわかるし、何よりもどのような状態で食べれば一番おいしいかを知っている。研修会等で勉強していくと弁当屋に肉を売る努力をするのでなく、店で肉を料理して弁当にして売ったらという発想にたどりつき、そのための勉強へと焦点がハッキリしてきた。肉を売り続けるにはそれしか方法がないと確信し、長い長い準備期間に入った。

 アドバイスとなる言葉も「ごはんを考えてみたら」から「本業は肉屋なのだから本業をないがしろにして次の事をやっても失敗するよ」、「病院も国鉄も一年中休みは無いのだから」、「航空機の中では狭い調理室で300食も食事を出せるからな」、「喜んで働いてくれる人がいたら夜中でも良いのでないですか」、「あなたは機関車になってどんどんひっぱっていきなさい」、「弁当屋が肉を処理する部門を持って弁当を作ることは不可能だから、あなたはそれを武器にしたら」、「肉屋だからメニューの80%は肉料理にした方がいいよ」、「牛肉は月に1回か2回しか食べないお客様も、ご飯となると毎日三度の来店頻度があるからいいよ」など、いろいろあった。

 人間切羽詰まると素直になって人の話を聞くことができるようになり、気づきの感度があがるようだ。これらの外にもいっぱいあったアドバイスを私たちなりに受け入れ、消化して、自分たちのものとして構築してきたのが現在の店の状態である。肉屋がご飯を売れる店の状態になるのに6年かかり、やっと弁当の形態で売ることになったのは62年7月、年中無休深夜2時まで営業とし、1週間休み店内改装をして開店した。

 「焼きたて、揚げたて、炊きたて」のキャッチフレーズもあとからできたものだった。店の前に小さな立看板2枚を立てての開店だったので、弁当は初日は日中20個位、午後7時から深夜2時までは1個だった。従業員は午後7時で全員帰るので、私と家内の二人で深夜2時まで担当した。もちろん日中も働いてである。チラシは出しませんし、店頭のメニューは紙に写真を張って値段を手書きしたものだった。
 食事の原点として、おいしいのはどんな状態なのかを考えた。弁当に対しては売る立場の論理が優先し、食べる人の立場になっていないのではないか。食べ物はおいしく作っても時間がたてば悪くなってしまうのが常識だ。悪くならないように工夫すればするはど味が落ちていく――などと原点から考えてお客様の顔を見てから作る弁当に挑戦した。

 おいしく短時間で調理することができるように肉をごく薄切りにし、素ダレと黒コショーを焼く瞬間に入れる。フライ類は全部生パン粉を使い予測準備しておき、フライヤーで揚げる時間をお客様から待ってもらい、その時間に炊きたてのご飯を入れ、副食材を付け終わる。待ち時間を3分以内と決めてあらゆることをシステム化していった。
 困難なことにぶつかると異業種でやっていることから学び、システムとして取り入れる工夫をくり返していった。人の動きを少なくし、仕事を分業化し、細分化し、パート・アルバイト社員でも熟練しやすくし、覚えた仕事をだんだん多くし、組み立てていき、弁当を作ることをマスターしてもらった。最終目標は、34種類のメニューを全部、完全に作れることである。

 現在の店は@いそがしいお客様は弁当注文を時間指定してもらい1個でも受け付けるAまとまった注文は数日前から予約を受けるB24時間体制で予約注文を受け付け、数の変更も作り始め寸前までOKC家族の夕食弁当の注文では全部違ったメニューを注文されても対応できるD朝は食べる時間を聞いて一息ぬいたご飯を詰める――という状況にある。

 食べ物は健康によく、その上おいしくなければならないので、現在も塩は海から取った自然塩の「海の精」と沖縄の塩「青い海」を使っている。砂糖も三温糖を使って体にやさしいお惣菜を作っている。これからも@家庭で作らなくなった「おふくろの味」をたずね聞いて手間ひまかけて家庭の主婦の代わりに作り、必要な量だけ店頭で売ることに心がけていくAお客様の立場で物事を考えB売る現場の人が判断し、仕入し、作るC時代の変化をキャッチし素早く対応し変化し続けるD従業員が生き生きと働くことのできる環境に一歩でも近づくE店で得た利益は店の再投資に使うF経営者として学び続け実践していく――に留意していくつもりである。

 【出典:「Future SIGHT2号」(1998年8月発行)】

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